1章
計算機は芸術家たるか?
世に芸術家は多けれど、天性の芸術家はそれほどいない。かくある人は人柄、風貌、言動などが凡人のそれとちょっと違ったところがあります。
そういったところが作品に表れるのか、[こんな見方があったのか][この感性は卓越している]とかいったことになります。
このよい意味での[奇抜]あるいは[はずす][センス・オブ・ワンダー]といった感覚は、落語、漫才、プログレッシブロック(死語)にもみられるように知的活動のひとつと言えます。
作品が人の常識的感覚から少しずれていて、かつ凡人にも理解可能で知的好奇心がくすぐられるとき、それは優れた作品と言うのでしょう。
あるいはもっと低次元で[きもちわるいいきもち]とか、[おもしろかなしい]とか、[はらだたねむい]といった生理的快感である場合もあるでしょう。
しかし、年齢や、知識の度合い、時代を越えて万人に優れた作品であると認められるのは並大抵のことではありません。そんな作品にはある意味で魔力が潜んでいるのでしょう。
凡人が芸術家たりえないのに、いわんや計算機………おや?、といわれるかもしれません。
しかし、なんやかんや冷たく言われるエキスパートシステムでさえ、専門知識においては凡人より往々にしてまともな判断を下します。
天性ということになると計算機は本来汎用であるがゆえにぱっぱらぱーであり、恵まれた資質は持っていないといった反論もありましょう。
しかし、本誌の読者の多くが所有している計算機は、流行からはずれて隔世の感がある。今の計算機には付いていないこんな機能がある。ある部分だけ訳わかんないほどオーバースペックである。といったものが多いでしょう。
そんな計算機ほど所有者の思い入れが激しいものです。
この意味では、すなわち[ずれている]といった点では、芸術家の素質十分です。芸術家の域に達した計算機のオーナーであることは、計算機愛好家の最高の誇りでしょう。
感情について
人は日常のちょっとしたできごと、会話、あるいは芸術作品に出会ったとき色々な感覚・感情を持ちます。
この起伏がある程度大きくないと退屈ですし、大きすぎるとノイローゼになったり、長く続くとリミッタやフィルタがかかってちょっとやそっとのことでは動じないようになります。
感情は定量的には捕らえにくいものであるといえます。
私は自分の計算機音楽の初期目標を[いかに感情というものをコントロールするか]に置いています。コントロールといっても単に『悲しいとか、嬉しいとか、面白いとかいった感情をどうすれば呼び起こせるか。』ぐらいになると思いますが。
これは非常にフィードバックしにくい事柄です。測定自体が主観によるもので自動測定できないし、反復測定がきわめてしにくいからです。
また、最終的に作曲はオープンループの制御とすべきです。なぜなら作曲結果をいちいち良いか悪いか観客に聞かせながら作ることは美しくないからです。
例えば10の良いモノの中から1つ最高のモノを選ぶことは意味がありますが、100のクズの中から1つ使えるモノを探すことは作曲の場合意味が薄いでしょう。
すなわちいいものであれば最高のものでなくとも可としてよいと思いますし、100のクズの中から選択させることは目的に沿っていないと考えます。
ですからガーベージアウトにならないように、どのような音階・リズムのときにどういった感情になるかを人が介在しフィードバックして、あらかじめ学習させなければなりません。
学習させるのでなければ、対応表みたいなものを作ってやればよいでしょう。(しかしこれは非常に難しく、その道の人が知恵を絞っても無理なことみたいですから、さじを投げる私です。)
それよりも、「為せばなる」といった感じもある(なぜかしら話題の)ニューロコンピュータで処理をやらせればいいのかもしれません。幸いニューロコンピュータは制御に向いているとのことなので、人の感情を音楽によって制御することは比較的容易にできるかも。(だれか私にデヂタルフィルタの自動設計とニューロコンピュータの学習がどう違うのか教えてください)
とはいえ、感情と音楽の関係は論理的解明をしなければ計算機音楽に明日はないのであります。
コミュニケーションとしての芸術
芸術はある人から別の人への情報伝達のひとつと考えられます。芸術家が作品を作る過程はコード、作品は伝送路、鑑賞はデコードと見なせます。これを図で表せば【図1】のようになります。
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しかし、生まれながらの芸術家ではない計算機は、観衆にたたかれこづかれしながら作風を確立していかなければなりません。【図2】の通りです。
ここで観衆は人間でもいいのですが、計算機にシミュレートさせてみるのも興味深いものがあると思います。
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【図1】 |
まず計算機の観衆に一般的に優れているといわれる芸術作品を体験させます。音楽の場合は交響曲とか民族音楽とかを聴かせればいいでしょう。
ところがこの[聴かせる]というのがくせ者で、スコアをいったん入力しなければいけません。フーリエ解析などを行い自動的に計算機が処理可能な楽譜の形にしなければ手間ばかりとられます。
足りない部分はロジックや、人間の補助入力などで補いながら鑑賞のシミュレートをするほうが実際的でしょう。
このような半クローズループのシステムで鑑賞の、強いては作曲のノウハウをためていくことになります。
ハードウエアを工夫して日本放送協会のFM放送を聞かせていれば、そのうち聞けるような曲を作曲するかもしれません。でもリアルタイムで音と楽曲分析をするためにはスーパーコンピュータでなければ無理かなあ。
話しがそれましたが、媒体が言葉にしろ、芸術作品であるにしろ計算機と人がより高度なコミュニケーションをするのはこれからといったところでしょう。
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【図2】 |
音楽の構造について
音楽のほとんどのものは、ある程度明確な構造を持っています。リズムは基本パターンの繰り返しが多いですし、ある旋律が繰り返されたり変奏されたりしてまとまりを持った1フレーズとなり………というふうに階層的になっています。フラクタルなどでいう自己相関と関連性があるかもしれません。フラクタルはその自己相関ゆえに複雑、かつまとまりのある図形を呈示し、ある意味でひとつの芸術をなしているといえます。
確かに音楽も曲のごく一部を聞いて全体の構成を、あるいは次にどういった音、リズム、和音が奏でられるかを、ある程度は予測できるものです。このことは音楽を作曲する上で非常に重要なことと言えます。
旋律・メロディについて
巷でよく聞く曲の旋律はえてしてシンプルで、繰り返しが多く構成も単純です。
自分でもできそうかな………なんて音符を並べても、どうしたことか陳腐でダサイものしかできません。と思うと、ふといいメロヂィが浮かぶこともあります。
単純なようで感性にうったえるものは、単純な中にもいろいろな(意図して作ったか、自然に涌きでたかは別にして)トリックがあるみたいです。
自分でもよくわからないものを分析して、アルゴリズム化しようとはどっこい甘い金太郎飴でありますが、[ぽっきん]と折っているうちに、[こんばんわ][ごきげんよう]といった芸術的境地に至れるかもしれません。
ある基本的法則で縛れば(例えば IF THEN ルールとか遷移表とか)ある程度はそれらしく聞けるものになるかもね。はっきりいってよくわかんない私でした。
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