零壱症候群特別講義(4)

元・富山県立中央病院歯科医  日出ずる処の唯の人

 

はじめに

 ROM,RAM,磁気テープ,プロッピーディスク,ハードディスクetc.とコンピュータは様々な記憶装置を持っています。現在主流のノイマン型コンピュータは、実行するプログラムを記憶装置に一旦記憶させ、そこから命令をひとつずつ取り出し、演算処理を行います。またこの記憶装置にはプログラムに必要なデータや演算処理の結果も格納されます。

 同じようにヒトをはじめ生物には記憶するという機能があります。ヒトの場合、ヒトとして生まれ、生命を維持するための情報を記憶しているところや、学習や記憶を行う器官があります。生物の「記憶」についてはわからないことが多く、ヒトではほとんど解明されていないというのが現状です。しかし、分子生物学、大脳生理学、神経生理学などの研究が現在急激な発展を遂げており、多くの仮説が立てられています。本稿では定説となっているヒトの「記憶のメカニズム」のアウトラインを述べたいと思います。

 

ヒトの子供はヒト?

 「親の因果が子に報い………」という昔の見世物小屋の口上にあるように、子供は親の精子と卵子が授精したときから親と似るように運命づけられているのです。子供がいくら嘆いてもこればかりはどうにもなりません。一般に生物では、子供はその親の形質を受け継ぎます。ときに突然変異で親と似ても似つかない子供が生まれることがありますが、それは病気(奇形であることが多い)であるか、生まれつき病弱であることが多く、育たないうちに自然淘汰されてしまいます。例えば白子は色素(メラニン)が完全に欠落しているために白く見えるのですが、その寿命は多くの動物では短いそうです。ですから、ヒトの子供はヒト、サルの子供はサル、AIDSウィルスの子供はAIDSウィルスとなるわけです。

 このように生物は親の因果を代々受け継いでいきます。このような現象を遺伝と言います。難しい言葉で言うと、遺伝とは親(細胞や個体)の形質(性質)が子や孫以下の世代に一定の規則性を持って出現する現象と定義できます。そしてその遺伝情報を記憶している場所もしくは物質を「遺伝子」と呼びます。

 遺伝子の要件のひとつは、記憶している遺伝情報が容易に変化しない安定な物質でなければならないということです。つまり遺伝子はRAMのようにRead/Writeが簡単に行える物質では都合が悪く、ROMのようにRead OnlyでWriteしづらい安定な物質でなければなりません。また、遺伝子はヒトが一個の授精卵から分裂して成長することから考えて、一個の細胞の中に収まるくらいコンパクトな物質でなければなりません。

リン酸(P)

塩基


リン酸
デオキシリボース
アデニン(A)
チミン(T)
グアニン(G)
シトシン(C)
【図 1】

 では、どこに遺伝子は存在すると考えられているのでしょうか。ひとつの母細胞は分裂する際に遺伝子を複製してふたつの娘細胞に分かれます。このとき遺伝子も複製され、各々娘細胞に分かれると考えられます。顕微鏡で分裂中の細胞を観察すると、細胞核が他の細胞内の小器官よりも顕著に変化しているのに気付きます。細胞分裂中の細胞核の中には、染色液によく染まることから名付けられた「染色体」が観察されます。細胞分裂のとき、全ての染色体は自分の複製を作り、それぞれふたつに分かれて新しい2個の細胞核の中に収まります。遺伝学者はこの染色体の上に遺伝子が載っていると考えました。

 ヒトの細胞中には46本の染色体があり、それぞれ形や大きさはまちまちですが、2本づつ似たような形のペアが22組と2本の性染色体に分類できます。同形の対の染色体は「相同染色体」と呼ばれ、それぞれ父母から受け継いだものです。一方の23本は父からの遺伝情報が載っており、他方の23本は母からの遺伝情報が載っています。

 染色体の中でもよく知られているのが性染色体です。性染色体にはX染色体とY染色体の2種類があり、このふたつの組合せで男か女か決定されます。(XYが男でXXが女というのが一般的ですが、XXX,XYX,XYYなどという人もいるそうです。)

 性染色体の上に性を決定する遺伝子があるように、他の染色体の上にも遺伝子があります。染色体を精製するとたくさんの細く長い紐状の物質が得られます。これがDNAと呼ばれるものです。一本の染色体から一本のDNAが得られます(ヒトでは46本のDNAが核の中にあることになります)。染色体の中には他にタンパク質も多く含まれていたため、つい最近まで遺伝学者たちはこのタンパク質に遺伝情報が載っていると思っていたようです。DNAは注目されずに放っておかれ、ワトソン&クリックの登場まで待つことになります。

 

遺伝の主役は核酸

 DNAは DesoxyriboNucleic Acid(デオキシリボ核酸)の略で、一分子は非常に長く鎖状の構造をしています。DNAの基本単位の形は【図1】のようにリン酸+糖+塩基であり、この基本単位をヌクレオチドと呼びます。ヌクレオチドのリン酸は、ヌクレオチドを次々つなぐときの“手”の役割を果たします。つまりヒトの手でシェイク・ハンドするように、リン酸も糖と糖の間にあってヌクレオチドをつなぎます。こうしてヌクレオチドがいくつも連結してできたのがDNA分子です。DNAの基本単位であるヌクレオチドが持つ塩基には四つの種類があります。アデニン(Adenine:A),グアニン(Guanine:G),シトシン(Cytosine:C),チミン(Thymine:T)の四種類です。DNAの各ヌクレオチドで違っているのがこの塩基の部分だけで、遺伝の情報は塩基の配列によって記憶されています。

 細胞核内のDNAは一本鎖ではなく、安定な構造を保つために二本鎖の形をしています。X線で結晶格子を解析した結果、DNAは単に平行に二本の鎖が並んでいるわけではなく、二重螺旋構造を採っていることが証明されました。また、【図2】を見てわかるように、2本鎖の塩基の対応はそれぞれ決まっており、アデニンとチミン、グアニンとシトシンがそれぞれ対応しています。DNAは2本鎖であることから複製が容易であり、一方の鎖が壊れてももう一方の鎖を鋳型にして修復することができます。DNAは安定に遺伝情報を伝えられるのです。

 

閑話休題

 ヒトの体内では生命を維持するために様々な化学反応が行われています。化学反応の多くは可逆的であり、生体内の化学反応もそうです。化学反応を可逆的にではなく、極端に一方向に進めるのには触媒と呼ばれる物質が必要です。生体内でも一方向のみに進む反応があります。このような生体内の化学反応に使われる触媒を特に酵素と呼びます。

 酵素のほとんどがタンパク質です。生体内で行なわれている化学反応のそれぞれに一個の酵素が対応して存在しています。これにより、複雑な段階的な化学反応が可能となります。同じような化学反応では形がよく似た酵素が使われますが、酵素を構成しているタンパク質の構造が少し違って化学反応に対して特異性(選択性)を持ちます。また同じ化学反応をサポートする酵素でも、個体が違えば構造が微妙に違ってきます。酵素の微妙な違いが個体の個性を決定しているという説もあります。酵素は生体内で重要な役割を果たしています。

 酵素や細胞の主成分であるタンパク質はアミノ酸が長くつながってできています。DNAはタンパク質のアミノ酸の配列の情報を記憶しています。DNAはタンパク質のアミノ酸配列情報を発現し、タンパク質合成を制御することで生体内の科学反応を制御し、遺伝を制御しているのです。

 

DNAからタンパク質へ

 DNAの情報から、どのようにタンパク質が合成されるかというプロセスについて簡単にふれましょう。

1)DNAはROM的性質の記憶素子で、しかも細胞核外には出ません。また、DNAの一分子上にはひとつのタンパク質分子のアミノ酸配列情報のみが記憶されているのではなく、多くのアミノ酸配列の情報が載っています。そこで、この情報の中で必要な部分だけをコピーして、細胞核外のタンパク質合成の場まで情報を伝える物質が必要となります。これがメッセンジャーRNA(m-RNA)と呼ばれるものです。

 RNAは RiboNucleic Acid (リボ核酸)の略です。DNAと同じくリン酸+糖+塩基のヌクレオチドからなる一本鎖の分子です。DNAと異なるところは、糖の構造(RNAはリボース)と四種類の塩基のうちチミンの代わりにウラシル(Urasil:U)が使われているところです。また、DNAは生体内ではほとんど2本鎖で存在していますが、RNAは一本鎖の状態で安定しています。DNAからm-RNAへの情報のコピーは【図3】のように行われます。DNAのチミンがm-RNAのウラシルに対応していることがわかると思います。

2)m-RNAは細胞核外へ出て、タンパク質合成の場であるリボソームへ向かいます。リボソームは3種類のRNAと50種類くらいのタンパク質からできている小器官です。一本鎖のm-RNAテープの情報読み取りを行い、その情報に従ってアミノ酸を並べ、タンパク質を合成する働きを持ちます。

 リボソームにm-RNAが到達すると、一本鎖の片側から読み取りが始まります。基本的にm-RNAの3つの連続した塩基配列により、一個のアミノ酸が決定されます。読み取り順にアミノ酸をペプチド結合させてタンパク質を合成します。末端、または終止命令で合成されたタンパク質ペプチド合成の場から離れ、いくつかが集まり立体的に折り畳まれたりして立体的な構造を持つタンパク質ができるのです。

 

3)アミノ酸は自分でリボソームにやってくるのではなく、トランスファーRNA(t-RNA)に引き連れられてやって来ます。t-RNAにはいろんな種類があり、各々のアミノ酸はそれ専用のt-RNAに結合します。【図4】のように、t-RNAはアミノ酸を引き連れてリボソームへやってきて、m-RNAの塩基配列の上に並ぶことでアミノ酸の配列を決定します。

 

 以上のようにしてDNAの遺伝情報、言うなればタンパク質のアミノ酸配列情報に基づいてタンパク質は合成されます。そしてこのタンパク質の多くは生体内の化学反応を特異的に進める酵素として働き、その酵素により生体物質が生産され、結果として親の形質が子供に伝えられ、遺伝が成立します。

 

化学情報機械?

 本誌はコンピュータ情報誌ですので、少しコンピュータに関係あることにふれておきましょう。

 コンピュータ・ハードウェアの基礎的な理論のひとつにオートマトン(自動機械)理論があります。オートマトン理論とは、自動機械の内部状態が入力によって変化していく様子を説明するための理論です。詳しくは「月刊インタフェース 1988年4月号」をご覧下さい。

 このオートマトン理論の基本的なモデルとなっているのがチューリング機械です。チューリング機械は、数学者 A.チューリングによって発表された自動機械です。チューリング機械は人を自動機械と考えたとき、できるだけその機械を単純化、抽象化、モデル化を行い、自動機械の処理プロセスを解明するために考え出された仮想の機械です。この機械は、ある有限な内部状態を持った本体から入出力用のヘッドが出ていて、それが左右に動く無限に長いテープを1コマずつ調べ、内容を読み取ったり、新しく書き込んだりできる機構になっています。(【図5】

 テープにはデータを書き込むための升目にひとつだけデータを書き込むことができます。

 チューリング機械の制御装置は、テープを左右に1コマずつ移動したり、現在のテープの位置のデータを読み書きすることができます。これらの動作は全く自動で行われ、人手を煩わすことなく進みます。

 チューリング機械のテープは、データの入出力と処理中のデータの記憶のいずれにも使用されています。ノイマン型コンピュータと比較すると、ノイマン型コンピュータではこのテープの機能を記憶装置、入力装置、出力装置に分断し、より効率よく処理できる形態になっています。しかし、インストラクションをひとつずつ読み込み、逐次的に処理していく基本的な部分では違いはありません。

 リボソームではm-RNAという長いテープを読み取り、リボソーム内のプログラムに従ってアミノ酸をつなぎ、タンパク質を合成します。これはチューリング機械の機構とよく似ているのに気づきます。m-RNAがチューリング機械のテープにあたり、リボソームがチューリング機械にあたります。リボソームも情報の逐次的な処理を行っています。

 このように生体内の分子レベルでの生体活動の機構が解明されるに従って、生体活動の基本的機構とコンピュータの類似点が多くあることが解明されてきています。簡単に言い切れば、生物は化学情報自動機械であり、きわめてコンピュータ的な制御の下で機能しているといえます。これに力を得て、生物をモデルにしたニューロ・コンピュータをはじめとするバイオコンピュータの研究が盛んに行われています。自動機械の発展がヒトの処理形態を真似ることから始まりノイマン型のコンピュータを生み出し、そして再び生物に研究の注目が戻ってきたことに生物の凄さをあらためて感じさせられます。

 

余談

 以前に雑誌をにぎわせていたAIDSという病気があります。AIDSとは後天性免疫不全症候群の略名です。この病気の原因と考えられているのがAIDSウイルスです。AIDSウイルスは体内にDNAはなく、RNAしか持っていません。この手のRNAしか持たないウイルスはレトロウイルスと呼ばれます。AIDSウイルスはRNAの他に、RNAの情報をコピーしてDNAを合成する酵素を持っています。

 AIDSウイルスは体内に入ると、リンパ球の一種であるヘルパーT細胞に選択的に入り込みます。そして酵素を使って細胞核内にあるDNAの断片を集めてDNA合成することによって情報を移し換えます。そして従来からある細胞核内のDNAに組み込まれます。この組み込まれたDNAの部分がm-RNAにコピーされてタンパク質を合成すると………そうです、AIDSウイルスができてしまうのです。

 このようにして細胞核内でAIDSウイルスが増殖すると宿主細胞が壊れるまで止まりません。AIDSウィルスは増殖し、ヘルパーT細胞を喰い破ります。ヘルパーT細胞は免疫系で重要な役割を果たしているのですが、この細胞が壊れてしまうことで免疫系の機能が低下し、日和見感染や悪性腫瘍増殖が起こって生死に関わるようになるのです。しかし、AIDSウイルス自体は感染力は弱く、普通の生活をしているぶんにはまず感染しないと言われています。

 相手を選びましょう。節操の無いHな人はとっても危険です。

 

脳の記憶

 カナダの脳神経外科医ペンフィールドは、側頭葉に障害のある癲癇(てんかん)の患者に側頭葉の手術を行なって、面白い事実を発見しました。患者の承諾を得て、露出した脳の表面に小さい電極を当てて刺激を与え、脳波や患者の様子を観察していたのです。するとあるときM.M.という女性の側頭葉に小さい電極を入れて弱い電流を流したところ、この女性は以前に経験した出来事を生々と思い出したのです。このように過去の記憶を呼び覚ますことをフラッシュバックといいます。

 他の脳の部分、例えば運動野と呼ばれるところを刺激すると腕や脚がピクピク動きますが、自分で動かしているという感じは持ちません。また体性感覚野と呼ばれる身体の知覚を司る部分を刺激するとしびれ感などを感じますが、下界の事物に触れたという感じは持ちません。運動野や感覚野への刺激に比べて、側頭葉への刺激はまとまりのある生き生きとした体験の記憶として再現されます。過去の経験の記憶が電気刺激で引き出されるときには、その経験の記憶が連続的に引き出され、時間は過去から現在の方向にのみ流れ、逆には決して流れません。過去と現在が交錯することもありません。刺激を途中で中断して、すぐ同じ点かもしくはその付近の点を刺激すると、同じ情景が初めから再現されます。

 このように側頭葉と記憶とは深い関係にありますが、“側頭葉=記憶の座”という式が成り立つわけではありません。なぜなら癲癇患者の左右の側頭葉を治療のため切り取っても、過去の記憶にはなんら異常は認められなかったからです。ただ、左右の側頭葉を切り取ってしまうと、新しい事柄を記憶することができなくなります。このことから側頭葉は記憶するときの情報の出入口になっていると考えられます。言い換えれば、零壱症候群vol.1『プログラマー MAY I HELP YOU ?』で坂田氏が述べているように、側頭葉はコンピュータにおけるインデックスのような役割を果たしていると考えられます。

 最近、PETという計測機が開発されましたが、これは生きた状態の脳の各部位の機能状態をコンピュータで瞬時に表示することができます。PETはポジトロン・エミッション・トモグラフィーの略です。半減期の短いアイソトープ(放射性同位体)を生体内に注入したとき、ポジトロン(陽電子)が放出されます。このポジトロンが電子と衝突して消滅するときに発生する放射線(線)を検出して画像にするのがこのPETです。

 炭素11を含むブドウ糖を注入すると、神経細胞がこれを取り込みます。活動が活発な神経細胞ほどブドウ糖を多く取り込むので、神経細胞の活動を画像にして見ることができるのです。このPETを用いて、ヒトに物事を記憶させたときの脳の活動を調べたところ、海馬という大脳皮質の中の旧皮質が活動しているのが見出されました。現在はここが記憶の座のひとつではないかといわれています。

 

記憶の分子(RNA)説とシナプス説

 遺伝学者は、遺伝情報の記憶の場所として染色体、DNAを発見しました。大脳生理学者はこの発見に影響されて、脳に記憶されることも細胞内の物質や細胞の形態的変化によって保持されているのではないかと考えました。

 そして、立てられた仮設の代表的なものが分子(RNA)説とシナプス説です。これらはまだ仮説の段階を越えていませんが、結構面白いので紹介したいと思います。

 遺伝情報がDNAの塩基配列に記憶されていることはすでに述べました。脳の記憶もこの核酸の塩基配列に記憶されているのではないかと単純に考えることができます。しかしDNAはROM的性格の強い素子ですので、容易にその構造を変化させることができず、多様に変化する脳の記憶には対応しにくいと考えられます。脳の記憶はREAD/WRITE可能な、いわばRAMのような記憶素子を考えた方がうまく説明できます。そこで、この素子の候補として挙げられたのがRNAなのです。

 RNAは前述したように、DNAよりは容易にその塩基配列を変更することが可能です。そこで、ひとつの記憶に対してひとつのRNAが対応して合成されるという仮説が立てられました。この仮説が正しいとすると、ある事柄を学習した動物の脳からその学習の記憶のRNAを抽出して全く学習していない動物に移植したとき、その動物は学習した動物と同様に、学習した事柄を実行することができるはずです。つまり記憶の移植ができるということです。これが本当なら受験生には福音となるでしょう。きっと英単語RNAとか公式RNAとかが発売され、暗記に時間をさく必要がなくなり、受験生の負担はずっと軽くなるでしょう。実際にネズミの実験で立証されたとする学者もいたのですが、追試の実験の結果はNOでした。現在はRNA説は否定的であると考えられています。

 分子説とともに有力なのがシナプス説です。記憶には神経細胞と神経細胞の接合部のシナプスが関係しているという説です。と、その前に、シナプス説に先立ってこの説の前提となっているニューロン回路説について少し触れておきましょう。

 ものを覚え込むこと(記銘)は、ニューロンの閉回路でインパルスなどの電気信号が循環することと仮定します。すると閉回路の中にあるシナプスやそれにつながるシナプスでは、短時間のうちに多数の電気信号群が繰り返し通ることになります。この結果、これらのシナプスは回路外のシナプスよりも信号が伝わりやすくなります。この信号の伝わりやすさ(促通性)が物質的に保持されれば、いわゆる記憶が成立します。すなわち、電気信号が消えてしまったあとでも、別の信号がこの促通性の保持された回路に入ってきたときには、記銘されたときと同じ状態となります。これが“覚えたことを後で想い出す”(想起)で、記憶の再生ということになります。

 プログラムを記憶したROMはRAMと違って内部記憶回路が固定化されており、同じアドレスをREADするといつも同じ内容が得られます。促通性の保持された神経回路とプログラムを記憶したROMが似ていることがわかると思います。

 この神経回路の促通性を持った閉回路も、使われないままだと元に戻ってしまいます。この状態が忘却です。この閉回路を保持するのには反復することが必要になります。つまり記憶を保つには楽な方法はなく、反復学習しなければならないということです。

 記憶課程を時間を追って考えてみると次のようになります。回路中のシナプスで多数の電気信号が一度に通ると、シナプスにある物質変化が起こり、そのシナプスの促通性が高まります。電気信号が継続すると、それらのシナプスではさらに信号が通りやすくなり、電気信号の循環、伝達はより長く継続します。そのうちに促通性を長期に保つ物質変化も起こってきます。このように電気活動の継続中に、シナプスでは促通性に関係する物質的変化、さらに促通性の長期固定化にいたる物質的変化の部分も重なり合って進行していると思われます。以上がニューロン回路説の概要です。

 記憶には一時的に保持される記憶(短期記憶)と長い間保持される記憶(長期記憶)があります。“一夜漬け”が短期記憶で、“想い出”が長期記憶です。大脳生理学的に言うと、短期記憶は電気刺激で壊されるもので、長期記憶は電気刺激で壊されないものとなります。このように電気刺激による安定性の違いから記憶のメカニズムも違うと考えられます。シナプス説では、この2つの記憶を説明するのに、次のようなシナプスの状態を考えました。ひとつはシナプスの機能が一時的に高められた状態で、もうひとつはシナプスの結合の数が増加する状態です。前者は人数を増やさないで仕事の能率を上げるのに例えられます。一時的に能率が上がっても、時間が経てば疲れて元の状態に戻ります。後者は人数を増やすことで仕事の量を増やすことに例えられます。

 このようにシナプスの状態が変化することを可塑性といいます。可塑性とは刺激に対して柔軟に対処し、変化することをいいます。

 短期記憶のシナプスの可塑性がいくつか知られています。普通、一連の電気刺激をごく短い時間間隔で与えて(頻発刺激)、その間のシナプス伝達効率の変化をみると、はじめのいくつかの刺激で効率は上がります(周波数増強)。しかし刺激が続くと逆に効率は低下し、抑制(シナプス抑制)が起こります(こうしないといつまでも興奮しっぱなしになってしまいます)。頻発刺激を止めたあと数分間はシナプスは促通状態になっており、次の刺激に対するシナプス伝達効率はよくなります。これを頻発刺激(テタヌス)後増強といいます。

 これとよく似た現象に、異シナプス間促通が知られています。頻発刺激によってあるシナプスが刺激されると、同じニューロン上の別の軸索のつくるシナプスで促通が起こります。これもひとつの頻発刺激が、他の刺激によるニューロン回路の成立、保持を助けるという意味で、短期記憶に寄与していると考えられます。

 ひとつひとつの頻発刺激後増強、異シナプス間促通はせいぜい数分間しか続きませんが、閉回路を考えたときより長い電気活動を継続するのに役立つと思われます。

 記憶の座の最有力候補のひとつとして海馬というところがあると述べましたが、この場所に長期増強という現象が起こることが知られています。長期増強は頻発刺激後増強と違い、シナプスに連続的に頻発刺激を与えると、数時間も伝達効率の上昇を起こします。この伝達効率の上昇が継続している間、短期記憶が保持されると考えられます。

 長期記憶はシナプスの形態的変化を伴うものと考えられます。

 脳の構造物質の代謝回転は非常に速く、DNAを除いて2週間以上安定な物質はありません。前述したようにDNAはROM的素子なので、書き込みを行うには非常に不便です。そこで、物質ではなくシナプスの形態の変化に注目したわけです。

 最近、種々の状況の中で新しいシナプスができることがわかりました。これを“発芽(SPOUTING)”といいます。発芽は、損傷を受けて変性したシナプスに代わって健全な神経線維から新しいシナプスが形成される現象であり、シナプスの保障機構のひとつとして発見されました。しかし、最近の研究で損傷していないシナプスでも起こることが確認されました。また、発芽は特定のシナプスにのみに見られる現象ではなく、脳内の多くのシナプスで起こり、特に海馬や小脳、脳幹部でよく観察されています。短期記憶から長期記憶に変わるときに、この発芽がニューロン間で起こることで記憶の長期固定化がなされているのではないかと思われていますが、まだまだ研究の段階です。

 

“最後に”ということで

 バクテリアの遺伝子は約150万個の塩基対しかなく、ヒトでは約30億個の塩基対があります。一概に塩基対の数だけで進化を述べることはできませんが、一般的にDNAの塩基対が増加することで進化してきたといえるでしょう。

 ヒトとバクテリアを比較すると、だいたい平均して1年に約1個弱の塩基が増えてきた計算になります。この塩基の増加と塩基配列の入れ替えで進化が起こったものと考えられるわけですが、1個の塩基の入れ替わる確率は1年で約10-8、1億年で1回程度です。塩基が30億個あるヒトのDNAでは、1年に約30個入れ替わる計算になります。

 この入れ替わりにより、いままでと異なるタンパク質が生産され、違った機能を持つようになると想像できます。そのタンパク質の多くは、その生物の機能を高めるよりは低下させます。不良な入れ替わった塩基配列の多くのものは、自然淘汰され次世代に伝えられないで終わってしまいます。また、DNAの塩基配列の数がもう一桁二桁増えたとすると、当然入れ替えの確率も増え、変異タンパク質が増えて生物に有害に働いて生物を滅ぼしてしまうことになりかねません。

 このように考えると、その生物の生存を基本的に損なわないで、その生物の持つことのできるDNAの量には上限があるという可能性が出てきます。それではDNAに収容しきれない情報をどこに蓄えるのでしょうか。

 生物の選んだ道は脳を進化させ、脳に情報を蓄え、これを一代限りにするということです。脳の情報量を神経細胞に入力するシナプス数から計算すると、両生類とハ虫類の進化の間で脳の扱う情報量が109bitに達し、これはDNAの持つ情報量とほぼ等しくなります。進化の進んだヒトではDNAは1010bitの情報しか持てないのに、脳の情報量は1013bitにまで増加することになります。ハ虫類以降は脳がDNAの含む情報量をはるかに陵駕しています。言い替えれば、書き換え可能なRAM型の記憶素子が増え、ROM型の記憶素子の割合が少なくなったのが高等ホ乳類であるといえます。

 そしてヒトは文字や紙を発明して情報の記憶量を一挙に増やしました。最近ではコンピュータの発明により、ヒトの補助頭脳的な役割を持つ道具が出てきました。このコンピュータを単に演算やデータ処理に使うだけでなく、ヒトの脳とよく似た機能を持たせようという研究が盛んに行われています。

 随分回りくどい文章でわかりづらく、専門用語も多くなってしまいました。注釈は付けたつもりですが不十分なところもあると思います。今はバイオブームで、本屋には生物関係の本が多く出ています。その手の本を一度読んでみてはいかがでしょうか。人工知能に興味を持っている人にはよい発想の転換を与えてくれると思います。

 

注釈

1)ノイマン型コンピュータ

 データとプログラムを記憶装置に格納して、それを演算処理装置(CPU)に呼び出して実行し、その結果を再び記憶装置に書き込んだり、外部に出力したりするという方式のコンピュータといいます。
 CPUがある時点で処理できる事柄はたったひとつです。ノイマン型コンピュータは処理手順が単純で制御しやすいのですが、膨大な計算やデータ処理を高速で実行しようとすると、この逐次処理方式がネックになります。
 この点を解消しようとして、並列処理の可能な非ノイマン型コンピュータが開発されていますが、まだノイマン型コンピュータを凌ぐ程のパワーはないようです。

2)器官

 ヒトの体は細胞からできています。細胞は一種類ではなく様々な種類があります。ある一種類の細胞が集まって形をなしたものを組織といいます。たとえば筋肉組織や骨組織などがあげられます。そのいくつかの組織が集まってひとつの機能単位となったものが器官と呼ばれます。たとえば心臓とか肝臓とかと呼ばれているものです。この器官が集まって人体が構成されるわけです。

3)形質

 生物の形態、性質、生活様式などの特徴をまとめて形質といいます。

4)母細胞と娘細胞

 分裂する前の元となる細胞が母細胞で、分裂後の2個の細胞がそれぞれ娘細胞です。

5)細胞内小器官

 1個の細胞の中にある、いちおうそれぞれ独立して働く器官です。細胞核、ミトコンドリア、リボソーム、ゴルジ体、細胞膜などがあります。

6)触媒

 化学反応は可逆的に行われます。この可逆反応は、活性化エネルギーと呼ばれるエネルギーの山を越えて行われます。この山が非常に高いと反応は進みづらくなります。そこで反応を進めるためにはこの山を低くしなければなりません。これが触媒の役目です。触媒は反応を進めるだけで、触媒自身は変化しないのが普通です。

7)アミノ酸

 タンパク質の基本単位で20種類あります。基本構造は下図の通りで、炭素原子の4本の手にカルボキシル基(-COOH)、アミノ基(-NH2)、水素、そして側鎖がそれぞれつながっています。アミノ酸を特徴づけているのが側鎖です。詳しくは生物の教科書を見て下さい。アミノ酸はカルボキシル基とアミノ基がペプチド結合で結びついてタンパク質になります。


           COOH
           |
         H-C-NH2
           |
           R          (R:側鎖)

        【アミノ酸】

8)免疫系

 免疫系は大きく体液性免疫と細胞性免疫の2つに分かれます。体液性免疫は病原体に対して抗体を生産して病原体を殺します。この体液性免疫の主役はB細胞というリンパ球です。ワクチンなどによって獲得された抗体はしばらく後に消えますが、この抗体についての情報がB細胞に記憶されており、再度病原体が体内に侵入したときにこのB細胞が働いて抗体を生産します。

 細胞性免疫では、免疫担当の細胞自体が病原体を攻撃します。NK細胞(Natural Killer Cell)、キラーT細胞などが攻撃細胞です。これらの細胞の指令塔となっているのがヘルパーT細胞です。ヘルパーT細胞が活性化しすぎるネガティブなフィードバックがかかり(サプレッサーT細胞が働きます)、全体としていきすぎないような機構になっています。

9)側頭葉

 大脳皮質の一部分の名称です。大脳の左右両脇にあり、他の部分とより深い溝で分けられています。

10)陽電子

 原子核の周りに存在しているのが電子ですが、これは負の電気を帯びています。これに対して陽電子は、質量は電子と同じなのですが正の電気を帯びています。

11)旧皮質

 大脳皮質の中心の方の折り畳まれた部分にあり、生命を維持していく上で最も基本的な活動を支配していると言われています。

12)シナプス

 神経細胞(ニューロン)が他の神経細胞に接続する部分がシナプスです。シナプス部には幅約20-30ナノメートル(1ナノメートルは10-9メートル)の隙間があり、神経伝達物質が前神経細胞から分泌され、後神経細胞膜に受容されることで刺激が伝わります。